山彦さん、きこりになる

山彦さん

夫の山彦さんがほぼ失業状態となったのは、4月の事だった。
主に1社から業務を委託されて仕事をする個人事業主だった。
親会社から、「委託業務自体を別会社が請け負う事になったため、4月以降は発注が無くなる」と連絡が有ったと山彦さんから聞いたのが3月の中旬。
まさに青天の霹靂。
「えー!!!と言いながら椅子から転げ落ちた」と言いたいが、人は驚きすぎると体は硬直し、声も出なくなるらしいと知った。
フリーズ、である。
余りにも驚きすぎて、明日は何曜日だったっけ?ごみの日だったっけ?等と、ゴミ出しの心配をしたことを覚えている。
現実と向き合うのが恐ろしすぎて、心が逃避。
そりゃそうでしょう。
だって、私が既に無職なんだから、二人とも無職はヤバすぎる。
とは言え、その時点で、山彦さんから同じ業務を請け負うらしい別会社とやらの求人に応募し、面接に行くと聞いたので、絶望とまでには至らずに済んだ。

4月になって、通告通りきっちり仕事の依頼が全て無くなった。
会社員なら失業保険が有るが、個人事業主は仕事が無ければ今日から無収入。
私が働けない以上、山彦さんに頑張ってもらうしかない。

頼みの綱だった応募済の会社は、試験と2度の面接と、1週間の研修まで受けて採用が決まったにもかかわらず、お断りすることになった。
本当の理由は山彦さんにしか分からない事だと思うが、信念に合わないと言われた。
「信念とか言ってる場合かよっ!」と心の中では非難ごうごうだったが、働くのは山彦さんなので、仕方なかった。
訪問での対面の業務だったので、フェイスシールドや、使い捨てのビニール手袋、ペーパータオル等の山と就活に掛かった10万円ほどの請求書が残った。

その後、配送の仕事やら警備の仕事やら、次から次へと果敢に応募し採用となって、安全靴やヘルメット等、今まで無かったグッズが家に溢れかえるようになり、最終的に全てお断りすることになった。

色々と応募し試す中で、次に山彦さんの目に留まったのが現在の木の伐採の仕事だった。
以前から興味が有ったと言う。
基本、屋外、山での作業になるから、夏は暑いし冬は寒い。
蛇や蜂や見たことない虫も沢山いる。
チェーンソー等の工具や倒木による怪我も心配。
過酷な仕事だからやめた方が良いと反対してみたが、決心は変わらなかった。
ちゃっちゃと面接を受けて、8月10日に「きこりの山彦さん」が誕生した。

数日は、講習や実務研修や健康診断を受けた。
そしてお盆明けから本格始動となった。
ところが、初日から九州から関西にかけて大雨にみまわれ、それが1週間以上続く事態となった。
山での作業だから、大雨が降ると休みになるのかと思いきや、毎日出かけて行って、どろどろ、へとへとになって帰ってきた。
余りにもボロボロになって帰ってくるので、無理せず辞めるよう促してみたけれど、首を縦に振らない。
毎日5時半に元気に出かけていって、18時過ぎに相変わらずボロボロで帰ってくる。
そして、「楽しいで」と笑って言う。
「楽しい」が本当かどうかは判らないが、体重は3㎏減っている。

昨日、長年使っていた革の財布が雨に濡れて無残な姿になり、さようならすることになった。
私がプレゼントしたものだった。
「お疲れさん」山彦さんが、財布にそう声を掛けて、ゴミ箱にポンと捨てた。
胸がいっぱいになった。

 

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