欲しい時間

雑記

昨年、29年間のフルタイムのサラリーマンを卒業した時、欲しかったのは時間だった。
当時、腰椎椎間板ヘルニアや更年期障害という自身の体調不良に加えて、両親の病気が次々と悪化し、その対応に追われた。
眠れなくなり、食べれなくなり、感情のコントロールができなくなり、悲しくないのに涙が出て、通勤電車に乗れなくなった。
世の中には、子育てや介護をしながら、仕事もこなして、自らの体調不良も上手にコントロールし、歩みを止めずに頑張れる人が沢山いる。
我が家は、子供がいないし、山彦さんが家事に鷹揚なので、仕事と家庭と、必要なら介護を折り合いをつけながらやれるんじゃないかと高を括っていた。
傲慢にも程がある。
腰の痛みは、足、手指、肩、顎関節と全身の痛みに広がりしびれて、朝は体がこわばって、ゆっくりほぐさなければ立ち上がれず、階段も腰を曲げて一段ずつ降りる。
何かを考えようとすると、脳がきしんだ。
そんな状態になった。
自らの体の状態が悪化した時に、回復のために時間をとって、ゆっくり休めないのは、体はもとより心に大きいダメージを与えたらしい。
壊れそうな自分を自覚した。
定年まで働くつもりだったから、老後資金の計画もその予定で立てていた。
経済的には、今、辞めるわけにいかない。
そう、何度も思ったが、悲しいかな自分の体調も、両親の状態も良い方向には向かなかった。
外からの刺激を全てシャットダウンし、殻に閉じこもるようにゆっくり休みたい。
ゆっくり休む時間が欲しい。
当時は、それでもまだ、甘えてると考えていたから、願うことすら罪悪感はかなり有った。
けれど、今思えば切実な願いだった。

退職して1年ちょっとが過ぎた。
両親の状態は、まるで私の退職を待っていたかのように、どんどん悪化していった。
昨年の夏は、耳が聞こえなくなった母の、5つも6つもに渡る受診に付き添い、時に車椅子を押した。
何度も救急車で搬送されて、入退院を繰り返した。
全身に痛みとしびれが有り、座っているのもつらい私には、たったこれだけでも苦行だった。
筆談の為にペンを走らせる指が、しびれて上手く字が書けない。
母を励ましながらも、自分自身は、やっぱり引きこもって休みたい、そう思っていた。
年末から、母は透析が開始となって、やや体調を持ち直した。
やっと引きこもれるかと思ったら、バトンタッチするように父の骨髄異形成症候群が判明し、父の受診と化学療法と輸血の付き添いが始まった。
そして、父もまた入退院を繰り返した。
とは言え、付き添って、時に車椅子を押して、受付や次回の予約や会計をするだけ。
大したことではない作業。
私自身が父が輸血を受ける3時間、待合室で座って待っていることや、車椅子を押したり引いたりすることでかかる腰や足への負担自体がつらい状態でなければ、だ。

入院すると、コロナのために面会できないから、洗濯物や差し入れは妹がしてくれて、私の出番は少なくなった。
今年に入ったころから、私の手のこわばりが徐々に少なくなってきた。
階段が、まっすぐ歩けるようになってきた。

7月の終わりに父が脳梗塞を発症した後は、先日まで2か月強の入院となった。
父にも妹にも申し訳ないと思ったが、私的には、図らずも、願っていたゆっくり休める時間が出来た。
9月までは、あまり変わりばえしない痛みに、「もう治らないのだ」と諦めかけていたけれど、今月になり、腰の痛みがまた少し改善してきた。
長時間座っていても、翌日の辛さが違うのだ。
ゆっくり休める時間は、私の体を少しづつ癒してくれているようだ。

こんな状況になっていなければ、きっと定年退職まで働いていたであろう私。
今まで通り、自分の時間の8割くらいを何の疑いもなく会社の為に費やしていただろう。
「仕事だから」という大義名分を振りかざし、家族や自分に時間を使わなくても当然だと思っていた。

これから、どんな人生になるのか?
父や母が、あとどのくらい生きられるのか?
山彦さんの仕事は、本当に続くのだろうか?
想定外ではあったけれど、せっかく出来た10割まるまるの私の時間。
神様が、私の行いの間違いを、教えてくれるために作ってくれた私の時間。
誰にも指図されない私の時間。
今後は、両親や山彦さんや私自身のために使おう。

もしも介護資金や老後資金が足りなくなって、再びサラリーマンとして、働かなくてはならなくなったとしても。
その時は、会社の為に時間を使うのはやめよう。
両親や山彦さんや自分自身の為に使うために、人的資本をお金に換えるだけ。
見た目がお金に変わっただけで、あくまで時間は家族や自分自身の為に使ってるのだ、そんな気持ちで働こう。

こんな当たり前のこと、今まで会社の為にと必死に働いていたから、気が付かなかった。

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